ひきこもりの人はなぜ「ひきこもる」のか?その根底にあるもの・・・

ニートやひきこもりの人は、なぜひきこもって他者との関わりを拒絶するのか。とある精神科医の先生は、こんな風に言っている。

 

 

ふむふむなるほど。たしかに、ニートやひきこもりの人にはこーいう傾向があるように思う。ただ、個人的には「自信」よりも「プライド」という言葉の方がしっくりくる。

 

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本当に「自信」がある人は・・・

 

「自信」というのは「自尊心」に直結する。「自尊心」とは、文字通り「自らを尊ぶ心」であり、「自分自身を大切にする」という生き方である。

 

自分を大切にできる人は、自然と他人も大切にできる。「自分」と「他人」が、マクロ的に見れば「不可分」であることを無意識にでも理解しているからだ。

 

また「自信がある人」は、自分自身の拠り所を「自己の内部」に求める。なので、むやみに他人と自分を比較したりしない。

 

そして、自分自身に何かしらの「欠点がある」ことも含めて、「トータルで」自分自身を認めているので、いちいち他人の言動に揺らいだりしない。ましてや、ネガティブな出来事を他人のせいにしたりしない。

 

だから、メンタルに安定感があるし、失敗を必要以上に恐れたりせず、チャレンジ精神に溢れている。

 

 

でも「プライド」が高い人は・・・

 

しかし「プライド」は、一歩間違うと「傲慢さ」に直結する。その根源には「劣等感」があり、自分で自分のことを認められていない。

 

つまり「自信がない」のだ。表向きはそんなそぶりを見せない(見る人が見ればすぐにわかる)が、内心ではいつも「他者への劣等感」にまみれている。

 

それゆえに、いつも他人と自分の状況を比較して、自分の現状を嘆く。そして、そんな状況になっている原因を他人に求めて、なんとか心の安定を図ろうとする。

 

けれど、そもそも根本的に不安で、自分のことが信じられないので、自分を大切にできない。自分ではそんなつもりがなくとも、自分をないがしろにしてしまう。

 

だから他人のことも、知らず知らず同じように雑に扱い、ないがしろにする。そんなことをしていれば、他人は自然と離れていく。

 

でもそのことに自分では気付いていないので、結果的に「私のことを誰も理解してくれない。私はちゃんとしているのに。そんな私を理解してくれないのは他人が悪い。」というおかしな理屈になってしまう。

 

そしてそれが「自己愛性パーソナリティ障害」と言われるのだと思う。

 

 

自信はあればあるほどいい。でもプライドはほどほどでいい。

 

これはあくまで僕の考えだが、「自信はあればあるほどいい」と思っている。逆に「プライドはほどほどでいい。」と思っている。

 

日本語には「自信過剰」なんて言葉があるが、僕はそれは「プライド過剰」の方が適切だと思う。

 

自信がある人は、自分に余裕があるので、自分を客観的に観ることができる。だから、「挑戦」と「無謀」を履き違えたりもしない。

 

でもプライドが高すぎる人は、自分に余裕がない。なぜならそれは「劣等感の裏返し」でもあるから。

 

だから自分に余裕がなく、自分を客観的に観られない。それゆえに、自分の身の丈以上のことをしようとしたり、逆に、やる前から「俺にはふさわしくない」などと傲慢な態度になってしまう。

 

なので「自信」はあればあるほどいいと、僕は思う。反面「プライド」はそこそこでいいと思う。

 

 

もしも「プライドがゼロ」だったら・・・

 

とはいえ「プライド」は、何もかも悪いのかというと、そーいうわけでもない。プライドは、ほどよく利用すれば「自分の生き方の美学」になると思う。

 

思うに「生き方の美学」とは、「他人が何を言おうとこれだけは絶対に貫く」という「人生の背骨」みたいなものだと、僕は考えている。

 

そしてそれは、「魅力的な人間」には大なり小なり必ず備わっている。「背骨」がない生き方をしてる人間に、人は魅力を感じない。

 

だからこそ、プライドは「ほどほど」には必要なのだ。「ゼロ」だと、背骨のない軟体動物になってしまう。ただし、その「ほどほど」は、人によって違う。

 

そこは自分で「バランス」を取るしかない。傲慢の領域に踏み込むギリギリのラインを自分で見極め、その「境界線一歩手前」くらいで踏ん張れる人が魅力的な人だと思う。

 

言うほど簡単ではないし、むしろとても難しいことだけど、日頃から「そんな人間に成ろう」と「意識」することからすべてははじまると思う。

 

 

人は人の中でしか生きられない

 

人間は「社会的な動物」だと言われるように、本質的に他者との関わりの中でしか「生きて」はいけない。

 

逆に言えば、他者との関わりを拒絶している人は、本当の意味で「生きて」はいないと。ただ「存在している」だけ。

 

人間として「生きたい」のであれば、他者との関わりは避けては通れない。

 

「自分を理解してくれない他人が悪い」などと、責任転嫁をして、ずっと現実から目を背けていたら、それはもう「生ける屍」と変わらない。