ヨーロッパ諸国は、シリア難民を積極的に受け入れるべきなのだろうか?

内戦が続くシリアから、ヨーロッパ諸国に大量の難民が避難してきて、彼らを受け入れるかどうかで、今大きな問題になっています。

 

そんな中、ローマ法王がヨーロッパの各教区に向けて、難民家族を受け入れるよう呼びかけを出したそうです。

 

 

このローマ法王の声明にどれほどの強制力があるのかはわかりませんが、ヨーロッパ諸国の教会や修道院は、この声明に従って難民家族たちを受けれていくのでしょうか。

 

個人的には「そうなったら良いなぁ」と素朴に思う反面、「いやいやそんな簡単な問題じゃないよなぁ」と思う面もあります。

 

 

幼い子供が悲劇の犠牲にならないためにも、ヨーロッパは移民を無条件で受け入れるべき?

 

たとえば最近、こんな写真が世界中で話題になりました。

 

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シリアから家族と共にボートで逃げてきて、結局最後はそのボートが転覆して溺死してしまった3歳の男の子、アイランちゃん。

 

こんな写真を見たら、思わず「ヨーロッパ諸国はどんどん移民を受け入れるべきだ!」という感情論に走りたくなる気持ちもわかります。誰だって幼い子供の悲劇には心を痛めるでしょうから。

 

 

難民の人たちは「人間」であるということ

 

しかし難民の人たちは、犬や猫のような動物とは違う、僕らと同じ「人間」なわけです。彼らには彼らの文化があり、常識があり、価値観があります。

 

難民の人たちを受け入れるということは、そのような「彼らが持つ文化や、常識や、価値観も合わせて受け容れる」ということです。

 

それこそ日本のような蚊帳の外から好き勝手に「もっと難民を受け入れるべきだ!」と言うのは簡単ですが、受け入れる側のことも考えると、そんな簡単な問題ではないなと思います。

 

「ほんの数日間だけ保護すればOK」なら特に問題はないでしょう。でも、そんな短期のホームステイみたいに軽い話ではありませんし…。

 

そんなことを考えていたら、その辺りの問題について、一つ興味深いことを書いているブログを見かけました。

 

ヨーロッパ におけるおける移民問題は、もはや「ヨーロッパの国家破壊の序章」の段階に入っています。ハンガリー政府が、移民の流入に慎重なのは、それこそフランスやドイツでの失敗を間近に見ているからでしょう。情けは誰にでもあります。でも「移民は人間」です。イヌやネコではありません。「かわいそうだから保護しましょう」ではいずれ済まなくなるのは自明の理ではありませんか?

 

~中略~



でも、そもそも「移民」は「異文化」でしかありません。豚肉を食べていた国民に、「私たちは豚肉は食べられない。今後はあなたたちも豚肉を食べるのは遠慮してくれ」と言われれば、豚肉を食べていた国民が怒るのは当然でしょう。「そんなバカな話はない」と思われるかもしれませんが、ドイツではホームレス向けの食事に豚肉を使った料理を出した団体が「人種差別団体」と非難されていますし、イギリスでは、イギリス人の女性給食調理員さんが、イスラム教徒の子弟に豚肉でできたハムを要望されて給仕したことを理由に解雇されています。移民が増えれば、「無理が通って道理が引っ込む」社会になりかねません。移民が多数になれば、彼らは要求し始めるんです。今度は「母屋を貸せ!」と。

 

出典元ブログはこちら

 

なるほど。これはこれで非常に説得力のある意見だと思います。確かに移民問題には、このような問題をたくさんはらんでいます。

 

せっかく難民を受け入れても、それがまた新たな争いの火種を生んでは意味がないわけで、そう考えれば考えるほど、本当に難しい問題だなと思います。

 

 

立場が変われば全てが変わる

 

ごく個人的な感情だけで、「難民の人たちの立場」を想像して言えば、ヨーロッパ諸国には難民の人たちを受け入れてほしいと思うし、(余力があるなら)そうすべきだと少なからず思ったりもします。

 

でも逆に、「受け入れる側の人たちの立場」になって想像すると、また全く話は変わってきます。安直に「受け入れるべきだ!」とは間違っても言えません。

 

国の施設ならまだしも、個人が難民の人を受け入れるということは、少なくともしばらくの間は、受け入れたその人が、難民の人を養っていくということです。(国から支援があれば別でしょうが。)

 

でも人間一人を養っていくことは決して簡単ではないわけで、それが常識も、文化も、宗教も、価値観も大きく違う人たちとなればなおさらです。たとえば同じ国の国民でも、急に「見ず知らずのホームレスを養ってやってくれ」と言われたら普通は困るわけですから。(僕だって困ります。)

 

 

移民問題は情で語るべきではない」のか?

 

じゃあどうすればいいの?と言うと、正直僕には何とも言えないのですが・・・たとえば先ほど引用したブログの著者のなでしこりんさんであれば、

 

私は、「移民問題は情で語るべきではない」と思っています。移民問題の本質は、移民を生み出す原因の戦争や暴力にあるのは誰の目にも明らかではありませんか? それこそ、世界の主要国は、シリアで猛威をふるう狂信集団ISを全力で壊滅させるべきでしょう。シリア人の子供の死に涙するその涙を、性奴隷として売り買いされているヤジディー教徒の少女にも振り向けてほしい。中国の苛烈な支配の中、命を落としているウィグル人の子供たちにも振り向けてほしい。

 

という風に言っています。僕にはそもそもとして、移民問題についてあまり知識がないので、偉そうに何かを言えないのですが、この意見にはちょっと疑問符がつきます。

 

難民問題なんて、シリアに限らず世界各地にあるわけです。そしてその問題の背景には、なでしこりんさんの言う「移民を生み出す原因の戦争や暴力」があるのは誰もが分かっていることではないかと思います。

 

 

暴力を暴力で解決しても意味がない

 

じゃあ、そこで「シリアで猛威をふるう狂信集団ISを全力で壊滅させるべきだ」というのは正しいのかというと、ちょっと違う気がします。

 

彼らの不当な暴力を根絶するために彼らを壊滅させる。そうなると、そのために使う手段はおそらく「暴力」であり「戦争」になるんでしょうから。それではまた新たな争いが生まれるだけです。

 

「世界平和」は世界中のほとんどの人が願うことだと思いますが、それは「争い」によって達成できるものではありません。仮にISを「壊滅」させたって、シリアが本当の意味で「平和」になるとは思えない。

 

 

世界に「平和」をもたらすもの

 

恒久的な「平和」を達成する唯一の手段は、人々の「相互理解」であり「対話」しかない、というのが僕の考えですが、これもまた、多くの人はおそらく頭では分かっていることだろうなと思います。

 

でも分かっていても、うまくいかないのが人間の弱さであり愚かさなわけで。なので結局、今の僕にできるのは「自分の身近な人との丁寧な対話を心がけ、相手を少しでも理解しようと努力していくこと」しかないのだろうなと思います。

 

今回のシリア難民の問題を「対岸の火事」として考えていてはいけないと思いますが、ただ現実としては何か具体的にできるわけでもないので、今の自分にできる小さなことをやるしかありません。

 

こんなとき、大富豪なら何かしら具体的な支援を、たくさんのお金を使ってできるのかもしれません。でも、今の自分にそれは難しいし、せいぜい小額の募金をするくらいで、それがとてももどかしいのですが…

 

 

「今の自分にできること」を考え、行動するしかない

 

なんだか何が言いたいのかわからないような話になってきてしまいましたが、要するに「今の自分にできることしかできないのが人間だから、少しずつ自分にできることを増やす努力をしていくしかないな」ということです。なんか元も子もないような着地点ですが(苦笑)

 

あれこれと「べき論」を語るのもいいのでしょうが、その前に「自分にできることを広げるための行動」を疎かにしない人間でありたいなと思います。

 

そしていずれは、直接的な支援を惜しみなくできる人間になる。そのためにも、今自分の目の前にある小さなことを疎かにせず、積み重ねていくことが大切だなと思います。

 

何よりも身近な家族や友人との対話を大切にし、「他人のことを理解することは根本的には不可能だ」という前提を持ちつつ、ほんのわずかでも理解しようと全身全霊でコミュニケーションを行ってゆく。

 

そして大事なのは「俺の言うことは正しいんだ!」などと狂信主義者になってはいけないということ。それこそがあらゆる「争い」の元凶だから。

 

誰もが「相手には相手の立場があり、常識があり、価値観があって、それ自体に『正しい』も『間違い』もないのだから、まずは認めて、受け容れる」という姿勢を示せるようになれば、きっと世界は平和になるはずだ、と信じています。