腐った土台はぶっ壊せ ━ 自分にとって「本当に大切なこと」は、いつだって足元にしかない
一人のとき、最近よく考えることがある。「夫婦」という関係、ひいては「家族」という関係について、よく考える。

「夫婦だから」「家族だから」
身近な人だから言えることがある。気兼ねなく、変に気を使うことなく、最も近しい関係にある相手だからこそ、隠さずに言えることがある。
でも同時に、近しい関係だからこそ、言いにくいこともある。特に「家族」は、基本的に毎日を共に過ごす存在だ。
それゆえに、言いにくいことをあえて相手に伝えたとき、それがきっかけでぶつかってしまうことがある。全くの他人であればスルーできるようなことでも、「家族」だからこそむきになって、反発してしまうことがある。
そうなると、全くの他人よりもその解決は大変だ。
関係が「夫婦」である以上、同じ屋根の下に住む「家族」である以上、嫌でも顔を合わせる。基本的に、そこから逃げることはできない。
もちろん、厳密にはそこで「面倒だから」と、その場から逃げることはできる。実家や、ホテルや、別宅や、知人宅など、そもそも物理的に顔を合わせない空間に逃げることは簡単だ。
それでは「家族」という関係は継続できない。
でも「家族」だからこそ、何よりも「大切な存在」だからこそ、お互いに、言うべきことはちゃんと言っていかないといけない。仮にそこでぶつかることがあったとしても、そこから逃げてはいけないのだと思う。
たとえ言いにくいことでも、いや、言いにくいことだからこそ、きちんと相手に伝える。それは、家族として避けてはいけないコミュニケーションだ。
往々にして「言いにくいこと」とは、相手にとっては「耳が痛いこと」であり、「できれば聞きたくないこと」だろう。でもだからこそ、きちんと伝えていかなくてはいけない。
大事なのは「伝え方」だ。
もちろん「伝え方」は考える必要がある。何も考えず、ただ無思慮に、正論で言葉をぶつけるだけでは意味がない。それではいたずらに、相手の心を抉るだけだ。
使う言葉や伝えるタイミング、実際に話すときの表情や身ぶり、そして心からの「相手のために」という想い。それらを全て踏まえた上で、適切なカタチで伝えなくてはいけない。
それは「夫婦」として、そして「家族」として、共に同じ方向を向いて歩んでいくパートナーとして、絶対に避けてはならない試練だと思う。
気付いていたけど、逃げていた。
最近の僕は、まさにそーいうことを考えざるを得ない中にあった。詳しいことは言えないが、今後の夫婦関係をより善くしてゆくために今、絶対に伝えておかなければいけないことがあった。
僕自身、そのことにはずっと気づいていた。でも、逃げていた。目を逸らしていた。見えてないふりをしていた。
その方が、単にラクだったからだ。悲しいかな妻は、長く心の健康に問題があって、そのせいか自分自身の感情や振る舞いを、あまり客観視できない。正直に言えば、被害者意識が強く、あまり人間を信用できないような状態にある。
ただ、そうなっても仕方ないと思えるような出来事(たとえばイジメや親からの虐待・育児放棄等々)を、過去にいろいろ経験しているので、仕方ない面も大いにあるのだけど…。まぁそれはともかく。
ただ自分が苦労したくないがために…
だから、何かのきっかけでぶつかることがあると、最終的に、夫である僕の方が折れてフォローしなければいけない。実際、結婚前からほとんどそうだった。
それがいつしか面倒くさくなってて、そもそも言うべきことを言わなくなった。言った方が、おそらく相手のためになる、相手の可能性を拡げることに繋がるであろうことは、容易に想像できる。
それなのに、その過程で起こる衝突が「面倒だから」という理由で、言うべきことも言わずにいるようになってしまった。恥ずかしながら、今朝がた母と電話で話していて、そーいう自分に気付かされた。
なんという体たらく。これでは「夫婦」として共に過ごす意味がない。今の状態は、ただ相手を見つめて、顔色を伺っているだけだ。
「愛するとは、たがいに見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見ることだ」
これは、サン=テグジュペリの「人間の土地」の非常に有名な一節だ。僕が昔から好きな、座右の銘にしている言葉でもある。
にも関わらず、僕は「たがいに見つめ合って」いただけだった。夫婦として「ともに同じ方向を見る」というあるべき姿から目を背け、ただ夫婦間で衝突が起こることを避けていた。
心のどこかでは「このままでいいわけがない」と気付いていながら…だ。今思えば、ただの自分勝手でしかなかったと思う。
本当に大切なものは、足元にしかない。
最も身近な他人、つまり「家族」に対して、人としてするべきことをちゃんとしない、通すべき筋を通さない人間が、ましてや全くの赤の他人に対して、本当の意味での「利他的な行い」ができるわけがない。
同じように「夫婦」に、そして「家族」に、真剣に本気でぶつかることから逃げてる人間が、赤の他人に本気でぶつかっていけるわけがない。
本当に大切なことは、いつだって足元にあるんだ。いや、「足元にしかない」んだ。どこか遠くの方に、自分にとって本当に大切なものが偶然落ちている、なんてことはまずありえない。
腐った土台は、綺麗さっぱりぶっ壊す
揺るがぬ堅牢な土台があるからこそ、その上に建つ家が安定する。それは、人間関係でも同じだ。
家族は、人間関係の土台だ。もっと言えば、人生の土台だ。少なくとも僕は、それくらい「家族」というものに比重を置いている。僕のアイデンティティを支える筆頭だ。
だからこそ、その土台を疎かにして、その上にどれだけ立派な家を建てたところで、ちょっとしたことで崩れ落ちるに違いない。腐った土台の上に、家は建たないのだから。
仮に平均寿命くらいまで生きるとしたら、僕たち夫婦ならあと50年はある。揺るがぬ夫婦生活を送るためにも、今の内に言うべきことを言い合って、ぶつかって、腐った土台は一度ぶっ壊す。
そしてまた、新しく堅牢な土台を造って、その上に二人の家を建てる。そーいう営みをすべきときなんだと思う。
それにしても母は、偉大だ。
まったく・・・いつまで経っても、母から教えられることは多い。本当に、頭が上がらない。
30歳を過ぎて、今まで以上に母の偉大さを感じる今日この頃。そんな母にこれ以上、余計な気苦労をさせないためにも、しっかりとやるべきことをやる。
とりあえず「人間の土地」でも読み返してみるかな。
